美川 憲一(みかわ けんいち、1946年5月15日 - )は、日本の演歌歌手、タレント。本名、百瀬 由一(ももせ よしかず)。長野県諏訪市出身。身長172.5cm。独身。来歴生い立ち生い立ちは複雑で、母が妻子ある交際相手との間に出産した子供が美川だった。一人で育てていた母が肺結核を患い、2歳の時に母の姉夫婦に引き取られた。姉夫婦に子供がいなかったため実子のように可愛がられ、子供の頃からバイオリン・絵画・日舞などを習った。実の親ではないことを知ったのは中学1年生の時だった。「2人の母親」を食べさせるために芸能界を目指し、高校を1年で中退し東宝芸能学校に入学。1964年、第17期「大映ニューフェイス」に合格。なお、1996年に育ての母が死去。2006年に生みの母が死去している。歌手として古賀政男の指導を受け、1965年、「だけどだけどだけど」で歌手デビュー。デビューは青春歌謡路線であり、当時は男装・美少年キャラクターであった。芸名の「美川」は岐阜県を流れる木曽川・揖斐川・長良川の3つの美しい川にちなむ。美川自身は長野県出身で2歳から東京に住んでおり岐阜とは何の縁もなかったが、デビュー当時のプロダクションの担当者が岐阜出身だったことから岐阜に由来する芸名を付けられた。「川のように息が長く、美しい歌手であるように」という意味が込められている。1966年、北海道出身で、柳ヶ瀬で流しをしていた宇佐英雄が作詞・作曲した「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚を売り上げるヒット。青春歌謡路線で売出し中の美川にとって演歌である「柳ヶ瀬ブルース」を歌う事にかなりの抵抗があった。レコーディングの話が来た際、レコード会社に「歌いたくない」と断ったところ「歌えないのならお前はクビだ」と言われてしまう。「クビになるのならやるだけやってみよう」「この曲が売れなければ辞めよう」と詞の内容も理解しないまま嫌々歌ったという。この曲のヒットにより美川はムード歌謡・演歌路線へとシフトを変えていくこととなる。また「柳ヶ瀬ブルース」は映画化され、美川にとって映画初出演の作品となった。1967年、「新潟ブルース」発売。売上枚数は多くなかったがカラオケで広く歌われるようになり、リクエストランキング1位を獲得した。1968年、「釧路の夜」がヒットし45万枚を売り上げた。「釧路の
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