伊東 四朗(いとう しろう、1937年(昭和12年)6月15日 - )は、日本のコメディアン、俳優、タレント、司会者。日本喜劇人協会相談役。本名は伊藤 輝男(いとう てるお)。東京都出身。血液型はO型。五人兄弟(兄2人姉1人妹1人)の三男。オルテ企画所属(「オルテ」は、本名「てるお」の逆読み)。兄は教育評論家の伊藤竹三。次男は俳優・タレントの伊東孝明。来歴生い立ち東京府下谷区竹町(現在の台東区台東)にて、服地商の子として生まれる。父親は静岡県相良町、母親は同県掛川市の出身。男、女、男、男、女の5人きょうだいの上から4番目の三男が伊東。戦時中は母親の実家のある掛川市に疎開した。子供の頃に工場跡地のトロッコで遊んでいたところ、トロッコが暴走し転倒。車輪の一部が伊東の左頬を貫通した。今でも伊東の左頬には傷跡が残っている。石井均一座東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業後は就職を希望し数多くの面接を受けるも、目付きが悪い、人相が悪いことを理由に不採用が続く。1958年、早稲田大学生協職員だった頃、石井均一座の舞台を見に足繁く通っていたため、一座の役者が伊東の顔を憶えるほどになっていた。それらの経緯もあり、石井一座の役者から「君も(舞台で)やってみないか?」と誘われ、石井一座に参加。同期には財津一郎らがいた。最初の芸名は、師匠の石井均に「いとうにしよう」と言われたことから「伊藤証(いとうしょう)」であったが(「一等賞」をもじって名付けられたとの説もある)、ポスターなどに名前が連なる時に「名前が一文字なため、先輩より目立ってしまっていけない」という理由で「伊東四朗」と改名した。てんぷくトリオ石井一座は、浅草の松竹演芸場や新宿の新宿松竹文化演芸場を拠点に人気となる。新宿時代、一座の戸塚睦夫がもともと軽演劇の仲間であった三波伸介と夜間キャバレーの営業に出ていたが、三波が大阪に行ってしまったために、一座の伊東が三波の代役で営業に参加(この頃の伊東は、三波伸介という芸名を使うことがあった)。のちに三波が東京に戻ったため、三人で営業用のトリオを結成。石井一座解散とともに、1962年、正式にてんぷくトリオ(当初「ぐうたらトリオ」)を旗揚げした。軽演劇の流れを汲むコントで、舞台・テレビで徐々に人気となり、三波のギャグ「びっくりしたなぁ、もぅ」が大当たりして、茶の間の人
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