ONEMAN LIVE "Project" After Party-Special Guest Performance / eyden
堀江 淳 (ほりえ じゅん、1960年10月19日 - )は、北海道出身のシンガーソングライター。
北海道苫小牧市生まれ。苫小牧南高等学校卒業後、札幌のライブハウスを中心にプロデビューを目指して活動する。
1979年、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)の第1回SDオーディションに合格し、1981年、「メモリーグラス」でデビュー。中性的な容姿・声も話題になり、デビューシングルは70万枚の大ヒットを記録する[1]。オリコン最高3位。
1994年、ビクターエンタテインメントへ移籍しアルバム「微風通信」をリリースした後、1998年ユニット「spoon」を結成。ライブ活動やインターネットテレビへの出演、アニメ「ドキドキ伝説 魔法陣グルグル」のEDテーマを手がける等の活動を行ったが、2004年に活動休止。
以後、ソロ活動に戻り、ラジオ出演、他ミュージシャンのプロデュース、楽曲提供など地道に活動を続ける。2006年、デビュー25周年。
世間では一発屋として認識されており、いわゆる「あの人は今!?」系の番組に頻繁に出演している。あるバラエティトーク番組では「今もメモリーグラス関連の収入で暮らしている」と発言し周囲を驚かせた(自身が作詞・作曲した曲のため、カラオケの著作権収入が年間約200万円程度入ることもあったらしい)。
また「メモリーグラス」のヒットからしばらくした1983年、交通事故に遭い負傷したと報道されたことが原因とみられる死亡説が流れたことがあるが、その噂が立った後、自ら健在であることをアピールするため「“生きてますよ”コンサートツアー」と銘打ったツアーを挙行した。しかし、生きているのを知るのは会場に来たファンのみで世間で死亡説は消えず、さらにはアジア移住説までもが流れ「堀江淳をタイで見た」等の目撃証言等も報じられたが、本人は「僕はタイに行った事ないから」と語っている[1]。さらに地元、苫小牧市の水道局に偶然にも同姓同名の職員がおり、「堀江淳は苫小牧に帰り公務員になった」という噂も流れたという。[2]
小堺一機が『ザ・トップテン』でレポーターを務めていた際、最初は「小堺さん、よろしくお願いします」と腰が低かったものの、人気が上がっていくにつれて「小堺さん」→「小堺君さぁ」→「おい、小堺!」とわかりやすすぎるくらいの天狗っぷりを、小堺と関根勤が担当していたラジオ番組「コサキン」でネタにされていた。
2006年9月までエフエム世田谷『オープンサロン834』を担当していた。三軒茶屋キャロットタワーのサテライトスタジオから毎週水曜日に生放送を行っていた。
東京・広尾の交差点で昼間に信号待ちをしている時に「水割りを下さい。涙の数だけ」という歌詞とメロディーが思い浮かび、それを元に「メモリーグラス」という曲を書き上げた(酒を提供する店でアルバイトしていた時期があり、客が「水割りを下さい」という言葉が耳に残っており、そこからインスピレーションを膨らませたという)。既に決定していたデビュー曲を押しのけ「メモリーグラス」でデビューを飾る。
「私は北海道出身。当時、水割りと言えば、ウィスキーの水割り」と述べている。
「メモリーグラス」には水割りが登場するが、「水割りは苦手な堀江淳です」と述べている。飲むのはお湯割り[3]。「水割りをください」と言った事はないと言う。
ラジオ番組『ザ・ヒットパレード』では、ニューミュージックではなく演歌・ムード歌謡に分類されていた。
元アラジンの高原兄とドロップアウターズを結成したが、業界ではウケたものの、世の中に出ることは無かった。
KNBラジオ「高原兄の5時間耐久ラジオ 長て長てこたえられんが」の企画で2006年6月17日KNB第3スタジオで再結成し、抽選に応募したリスナー(全員)の前でライブを行った。
2008年3月より所属事務所をFORTUNE(フォーチュン)へ移籍。
2008年4月、グループ会社・タニプロモーション所属に変更。ボイストレーナーとして後進の指導にも当たっている。
2013年4月、ビクターエンタテインメントから「花ひとつ 夢ひとつ」をリリース。西田敏行が歌詞を提供した。