03.01 (Fri)
中川 五郎(なかがわ ごろう、1949年7月25日 - )は、1960年代後半から活躍するフォークシンガー、訳詞家、音楽評論家、小説家、エッセイスト、翻訳家。
1960年代後半に、関西を中心に起きたフォークミュージックのムーブメント「関西フォーク」の代表的人物の一人。 京都などで行われた「フォークキャンプ」などでメッセージ色の強い曲を歌い始める。 関西「フォークの父」高石ともや、「フォークの神様」岡林信康、東京から京都に来た高田渡に続く高石音楽事務所のプロテストソング歌手の末っ子的存在だった。
1967年3月、当時、大阪府立寝屋川高等学校の3年生であった中川はベトナム反戦講演会に参加。ゲストで来ていた高石ともやの歌に衝撃を受け、自身も歌を作っていると高石に話しかけたのが最初の出会いである。以来、中川は高石に連れられて様々な会を一緒にまわるようになったがきっかけとなり、フォークシンガーへと進んでいく。中川は、高石やザ・フォーク・クルセダーズが参加した、第1回関西フォークキャンプ(1967年7月29日、京都・高雄)で歌唱。
1967年、ボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」に、受験生を題材にしたオリジナルの詞をつけた「受験生ブルース」を制作する。翌1968年、中川の詞に高石が人懐っこいコミカルな曲をつけたものがレコード化され、有名になる。
1969年4月、小室等のグループ六文銭とのカップリングアルバム『六文銭・中川五郎』でURCレコードからデビューする。「殺し屋のブルース」「うた」など数多くの作品がフォーク・ゲリラのレパートリーになった。
中川は、政治性やメッセージ性だけを意識していたわけではなく、第4回関西フォークキャンプ(1969年8月15日)打ち上げコンサート(京都市の円山公園野外音楽堂)では、恋愛歌であるエリック・アンダースンの「恋人よベッドのそばにおいで」を歌っている。
1969年11月『終り、はじまる』(収録曲=「古いヨーロッパでは」、「殺し屋のブルース」、「いつのまにか」、「主婦のブルース」、「死んだ息子が帰って来たから」、「あなたがもう笑えないから」、「うた」、「かえるそのとき 」、「自由についてのうた」、「俺はヤマトンチュ」、ピート・シーガーの「腰まで泥まみれ」、「終る」)をリリース。
1970年に「歌手廃業」を宣言し、URCの機関紙「フォークリポート」の編集者となるが、その最初の号「冬の号」がわいせつ容疑で押収され、中川はわいせつ文書販売同所持事件の被告人となり、裁判は7年続く。その内容は中川の著書「裁判長殿、愛って何?」に詳しく書かれている。
この「フォークリポートわいせつ裁判」で1970年代前半を棒に振り、1976年妻・青木ともことの生活や愛猫の死などを描いた傑作『25年目のおっぱい』をリリース。 だが、1978年『また恋をして... More Biography
1960年代後半に、関西を中心に起きたフォークミュージックのムーブメント「関西フォーク」の代表的人物の一人。 京都などで行われた「フォークキャンプ」などでメッセージ色の強い曲を歌い始める。 関西「フォークの父」高石ともや、「フォークの神様」岡林信康、東京から京都に来た高田渡に続く高石音楽事務所のプロテストソング歌手の末っ子的存在だった。
1967年3月、当時、大阪府立寝屋川高等学校の3年生であった中川はベトナム反戦講演会に参加。ゲストで来ていた高石ともやの歌に衝撃を受け、自身も歌を作っていると高石に話しかけたのが最初の出会いである。以来、中川は高石に連れられて様々な会を一緒にまわるようになったがきっかけとなり、フォークシンガーへと進んでいく。中川は、高石やザ・フォーク・クルセダーズが参加した、第1回関西フォークキャンプ(1967年7月29日、京都・高雄)で歌唱。
1967年、ボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」に、受験生を題材にしたオリジナルの詞をつけた「受験生ブルース」を制作する。翌1968年、中川の詞に高石が人懐っこいコミカルな曲をつけたものがレコード化され、有名になる。
1969年4月、小室等のグループ六文銭とのカップリングアルバム『六文銭・中川五郎』でURCレコードからデビューする。「殺し屋のブルース」「うた」など数多くの作品がフォーク・ゲリラのレパートリーになった。
中川は、政治性やメッセージ性だけを意識していたわけではなく、第4回関西フォークキャンプ(1969年8月15日)打ち上げコンサート(京都市の円山公園野外音楽堂)では、恋愛歌であるエリック・アンダースンの「恋人よベッドのそばにおいで」を歌っている。
1969年11月『終り、はじまる』(収録曲=「古いヨーロッパでは」、「殺し屋のブルース」、「いつのまにか」、「主婦のブルース」、「死んだ息子が帰って来たから」、「あなたがもう笑えないから」、「うた」、「かえるそのとき 」、「自由についてのうた」、「俺はヤマトンチュ」、ピート・シーガーの「腰まで泥まみれ」、「終る」)をリリース。
1970年に「歌手廃業」を宣言し、URCの機関紙「フォークリポート」の編集者となるが、その最初の号「冬の号」がわいせつ容疑で押収され、中川はわいせつ文書販売同所持事件の被告人となり、裁判は7年続く。その内容は中川の著書「裁判長殿、愛って何?」に詳しく書かれている。
この「フォークリポートわいせつ裁判」で1970年代前半を棒に振り、1976年妻・青木ともことの生活や愛猫の死などを描いた傑作『25年目のおっぱい』をリリース。 だが、1978年『また恋をして... More Biography