1985年8月18日、アメリカワシントン州・オリンピアにて母が持ち込んだカセットデッキから流れるスティービー・ワンダーの音楽に包まれながら産まれる。母から日系、父から欧米系(イギリス、ドイツ、スコットランド)の血を受け継いだマヤ・ハッチは、幼い頃から多文化間交流の大切さを身をもって学んできた。彼女にとって音楽とは、人と人とをつなぐ最適な方法なのである。
1993年8歳の時「サダコ・ピース・クラブ」(広島の原爆体験をテーマにした『禎子と千羽鶴』を作曲し、平和活動を行っているMichiko I. Pumpianさん主宰の児童合唱団)に参加。1996年に地元シアトルの小学校を卒業し、家族とともに日本へ渡り4年間を東京で過ごす。そこで弱冠12歳にしてNHKのスタジオ収録に参加、2年間ヴォーカリストを務めた。同時期に地域の劇団主催のミュージカル「赤毛のアン」「FAME」でリード役に抜擢され、歌と舞台で活躍する。
13歳の時、TBS系列のバラエティ番組「チャンスの殿堂!」に歌手メジャーデビューを目指して応募し、約14,000人の中から選び抜かれた4人のうちのひとりとして6ヶ月間に渡りお茶の間に登場した。放送局の都合により番組が途中で打ち切られてしまったため最優秀候補者は選ばれずじまいに終わったが、この体験を経てプロの歌手を志すようになる。
その後アメリカに帰国。父に連れられてシアトル中心に活動するウェストコースト屈指のジャズシンガー、グレタ・マタッサのステージを体験。ジャズとの衝撃的な出会いだった。その歌唱力に深く感動したマヤ・ハッチは、のちにマタッサの個人レッスンを受け始めることになる。高校2 年生のとき同校の栄誉あるジャズボーカルグループに入団し、シアトルの著名なジャズライブハウスやレストランで出演したかたわら、国内のジャズフェスティバルに多数参加し数々の受賞を経験した。特筆すべきはエリオットベイ・ジャズフェスティバルでの「最優秀ミュージシャン賞」(2004年)、レノ・インターナショナルジャズフェスティバルでの「最優秀ミュージシャンシップ賞」(2003、04年)、ライオネル・ハンプトンジャズフェスティバルで開催されたアルトソロボーカルコンペティションでの2位受賞(2004年)。
2002年の夏、全米から選ばれた3人の特待生のうちのヴォーカリストとしてイアーショットジャズ奨学金を受け、セントラム・バド・シャンクジャズワークショップに参加。その年のボーカル生を代表する2名に選ばれ、お披露目ライブも敢行。前年おなじワークショップに参加していたaward-winningピアニスト、ジェラルド・クレイトンとの出会いはここから始まり、8年後(2009年)にマヤ・ハッチのデビューアルバムのピアニストを務めることになる。
ニューヨーク州・ニューヨークのニュースクール大学に入学。ジャ...
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