03.29 (Fri)
井上 順(いのうえ じゅん、本名同じ、1947年2月21日 - )は、日本のタレント、歌手、俳優、コメディアンである。旧芸名は、井上 順之(いのうえ じゅんじ)。
来歴* 東京都渋谷で馬場を営む家に生まれ、麻布龍土町(現在の港区六本木7丁目)で育った。* 小学校の時は映画が好きで、よく映画を観に行っていた。当時の映画館では保護者同伴の場合は小学生は無料だったため、自分の父親に相当する年齢の男性を見つけては後ろにくっ付いて館内に入り、映画を観ていたという。* 1961年、13歳の時に、峰岸徹、大原麗子、田辺靖雄、ジェリー藤尾などもいた「六本木野獣会」に加入する。後にジャガーズの前身バンドにも籍を置いた。峰岸からは実弟のように可愛がられ、デビュー前から峰岸が亡くなるまで、食事や遊びなどにしばしば誘われた。* 中学校の卒業集合写真には同級生と一緒に写っておらず、写真左上の欠席枠に入っている。欠席した理由は、ジャズ喫茶に入り浸っていて学校をよくサボっていたため。* 1963年(昭和38年)、成城高等学校在学中である16歳の時に、鑑賞したザ・スパイダースのライブに触発され、その場で自ら門を叩いてグループに加入を申し出る。ほどなくして、グループサウンズ時代の最年少メンバーとして堺正章と共にツインヴォーカルとパーカッション(「サイドタンバリン」とネタにされてもいた)を担当。コンサートでは、堺と共にMCも担当した。後の『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)などで見せる軽妙なトーク技術と気さくなキャラクターはこの時期に研鑽されたもので、現在の芸風の基盤を作り上げた。* 1970年(昭和45年)のスパイダース解散後は、芸名を「井上順之(じゅんじ)」と改める。しかし、痔になったため、「『じ』は良くない」と、1973年に芸名を「順」に戻した。* 1971年、『昨日・今日・明日』で歌手としてソロデビュー。歌手を本業としながら、俳優業・司会業にも進出する。「ジャーニー!」「ピース!」など数々の流行語を生み出し、コンスタントにシングルのリリースも続けた。『ラブラブショー』(フジテレビ)での共演をきっかけとして、当時資生堂の人気モデルだった青木エミと大恋愛の末に結婚するが、1982年(昭和57年)夏に離婚。以後、独身を通している。
続きはウィキペディアで。... More Biography
来歴* 東京都渋谷で馬場を営む家に生まれ、麻布龍土町(現在の港区六本木7丁目)で育った。* 小学校の時は映画が好きで、よく映画を観に行っていた。当時の映画館では保護者同伴の場合は小学生は無料だったため、自分の父親に相当する年齢の男性を見つけては後ろにくっ付いて館内に入り、映画を観ていたという。* 1961年、13歳の時に、峰岸徹、大原麗子、田辺靖雄、ジェリー藤尾などもいた「六本木野獣会」に加入する。後にジャガーズの前身バンドにも籍を置いた。峰岸からは実弟のように可愛がられ、デビュー前から峰岸が亡くなるまで、食事や遊びなどにしばしば誘われた。* 中学校の卒業集合写真には同級生と一緒に写っておらず、写真左上の欠席枠に入っている。欠席した理由は、ジャズ喫茶に入り浸っていて学校をよくサボっていたため。* 1963年(昭和38年)、成城高等学校在学中である16歳の時に、鑑賞したザ・スパイダースのライブに触発され、その場で自ら門を叩いてグループに加入を申し出る。ほどなくして、グループサウンズ時代の最年少メンバーとして堺正章と共にツインヴォーカルとパーカッション(「サイドタンバリン」とネタにされてもいた)を担当。コンサートでは、堺と共にMCも担当した。後の『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)などで見せる軽妙なトーク技術と気さくなキャラクターはこの時期に研鑽されたもので、現在の芸風の基盤を作り上げた。* 1970年(昭和45年)のスパイダース解散後は、芸名を「井上順之(じゅんじ)」と改める。しかし、痔になったため、「『じ』は良くない」と、1973年に芸名を「順」に戻した。* 1971年、『昨日・今日・明日』で歌手としてソロデビュー。歌手を本業としながら、俳優業・司会業にも進出する。「ジャーニー!」「ピース!」など数々の流行語を生み出し、コンスタントにシングルのリリースも続けた。『ラブラブショー』(フジテレビ)での共演をきっかけとして、当時資生堂の人気モデルだった青木エミと大恋愛の末に結婚するが、1982年(昭和57年)夏に離婚。以後、独身を通している。
続きはウィキペディアで。... More Biography