ネオソウルのパイオニアとして知られる、レジェンド・シンガーの D’Angelo(ディアンジェロ)が2025年10月14日、膵臓癌の闘病の末、51歳で死去したことが明らかとなった。
D’Angelo の家族は Variety 誌への声明で彼の死を認め、以下のようにコメントしている。
D’Angelo はバージニア州サウスリッチモンドで生まれ、幼少期から音楽に親しみ、3歳からピアノを学び、ペンテコステ派の牧師であった父親と共に教会で演奏していた。10代には「Three of a Kind」「Michael Archer and Precise」「Intelligent, Deadly but Unique (I.D.U.)」等のバンドで地元で活動していた。
1993年には EMI と契約、Black Men United (B.M.U.) のヒット曲「U Will Know」を手掛けた。
1995年7月にリリースしたデビューアルバム『Brown Sugar』はビルボード200アルバムチャートに65週間ランクイン、「Brown Sugar」「Lady」「Cruisin’」等のアルバム収録曲が大ヒットを記録し、一躍スターダムにのし上がった。同アルバムの存在は、60〜70年代 R&B と現代的 HIPHOP のスタイルを融合させた90年代後半の “ネオソウル” ムーブメントを牽引しており、Maxwell(マックスウェル)、Erykah Badu(エリカ・バドゥ)といったスターたちが D’Angelo に続き活躍していった。
D’Angelo は、Lauryn Hill(ローリン・ヒル)による1998年リリースのデビュー・アルバムで、マルチ・プラチナアルバムに輝いた『The Miseducation of Lauryn Hill』に参加し「Nothing Even Matters」にてボーカルとエレクトリックピアノを担当。
また、この時期に D’Angelo は、The Roots(ザ・ルーツ)のリーダーで、ドラマーの Ahmir “Questlove” Thompson(アミール・クエストラヴ・トンプソン)と親友になり、その後キャリアの大部分で共に活動するようになる。Questlove は『Voodoo』『Black Messiah』の制作にも深く関わっている。
なお、『Voodoo』は主にニューヨークの Electric Lady Studios で数ヶ月に渡るレコーディングとミキシングを経て制作されており、 D’Angelo、Questlove のほか、ホーン奏者の Roy Hargrove(ロイ・ハーグローブ)、キーボード奏者の James Poyser(ジェイムズ・ポイザー)、ベーシストの Pino Palladino(ピノ・パラディーノ)、プロデューサーの J Dilla(J・ディラ)と、後の Soulquarians(ソウルクエリアンズ)メンバーが参加していることでも知られており、他にも Erykah Badu や Common のアルバムも手掛けている。彼らは、スタジオでウォームアップのために、Sly & the Family Stone(スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン)の『There’s a Riot Goin』、Prince(プリンス)の『Parade』等のお気に入りのアルバムを全曲通して演奏していたという逸話も持つ。
▼Electric Lady Studios:https://www.instagram.com/p/DPhTKV1kRvd/

しかし一方で、『Voodoo』からのリードシングル「Untitled (How Does It Feel)」は、ミュージック・ビデオでのギリギリ下半身が見えないところで切られた筋骨隆々な上半身裸の D’Angelo の映像に注目が集まってしまい、 D’Angelo は “セックスシンボル” として祭り上げられてしまい、D’Angelo はそれを嫌非常に嫌がっていたとのことだ。
『Voodoo』はツアーも大成功を収め、D’Angelo のシーンでの立ち位置は揺るぎないものとなったが、その後10年間の間に2人のマネージャ、1つのレーベルと仲違いし、飲酒運転、マリファナ・コカイン所持での逮捕により表舞台から姿を消し、強迫観念に囚われた D’Angelo はバージニア州にある自宅に引きこもり、何年間もの期間を次作アルバム『Black Messiah』の制作に費やした。同アルバムの進捗状況の報告は、Questlove を通じて発表されていた。
2010年代初頭より徐々に復帰し、ヨーロッパツアーや Questlove とのライブを行うように。
2014年には前作から約15年の歳月を経て『Black Messiah』がリリース、その後大規模なツアーが展開され、最初の公演はニューヨーク・ハーレムにある Apollo Theater でスタートした。なお、16歳のとき、D’Angelo はこのApollo Theater の名物イベント「Amateur Night at the Apollo」にて初めてパフォーマンスを披露し優勝している。
しかしこのツアーの後、再び D’Angelo は隠遁生活に戻ってしまい、ほとんどパフォーマンスを披露したりすることもなくなってしまう。
Questlove が監督を務めたドキュメンタリー映画で「Sly Lives」では、模範やリーダーとして期待される才能豊かなアーティストでありながら、その役割に馴染めないプレッシャーや自らその役割を担ったことによる罪悪感についての “天才黒人の重荷” について触れられているが、この映画の中で D’Angelo も “黒人の著名人であることのプレッシャー” について以下のように 語っていた。
心よりお悔やみ申し上げます。
D’Angelo の家族は Variety 誌への声明で彼の死を認め、以下のようにコメントしている。
生前、D’Angelo は1995年リリースのデビューアルバムで、クラシックな R&B の要素と HIPHOP の影響を融合させた独自サウンドを確立した『Brown Sugar』、2000年リリースで D’Angelo のソウルフルな美学が堪能できる『Voodoo』、2014年には D'Angelo and The Vanguard(ディアンジェロ・アンド・ザ・ヴァンガード)名義でラストアルバム『Black Messiah』をリリースしており、『Voodoo』は2001年の第43回グラミー賞で「最優秀R&Bアルバム」と、同アルバム収録曲「Untitled (How Does It Feel)」が「最優秀男性 R&B ボーカル・パフォーマンス」を受賞、そして2016年の第58回グラミー賞で『Black Messiah』が「最優秀 R&B アルバム」と収録曲「Really Love」が「最優秀R&Bソング」を受賞している。家族の輝く星が、この世を去ってしまいました…長く勇敢な癌との闘いの後、世界中のファンから D’Angelo として知られている Michael D’Angelo Archer(マイケル・ディアンジェロ・アーチャー)が天国に召され、本日2025年10月14日にこの世を去ることを、悲痛な思いとともにお知らせします。彼が家族と大切な思い出だけを残せるのは悲しいことですが、彼が残してくれた並外れて感動的な音楽の遺産には永遠に感謝しています。この困難な時期にプライバシーを尊重していただくようお願いいたしますが、彼の死を悼むとともに、彼が世界に残した歌の贈り物を称えるために、皆様と一緒に参加してくださいますようお願いいたします。
D’Angelo はバージニア州サウスリッチモンドで生まれ、幼少期から音楽に親しみ、3歳からピアノを学び、ペンテコステ派の牧師であった父親と共に教会で演奏していた。10代には「Three of a Kind」「Michael Archer and Precise」「Intelligent, Deadly but Unique (I.D.U.)」等のバンドで地元で活動していた。
1993年には EMI と契約、Black Men United (B.M.U.) のヒット曲「U Will Know」を手掛けた。
1995年7月にリリースしたデビューアルバム『Brown Sugar』はビルボード200アルバムチャートに65週間ランクイン、「Brown Sugar」「Lady」「Cruisin’」等のアルバム収録曲が大ヒットを記録し、一躍スターダムにのし上がった。同アルバムの存在は、60〜70年代 R&B と現代的 HIPHOP のスタイルを融合させた90年代後半の “ネオソウル” ムーブメントを牽引しており、Maxwell(マックスウェル)、Erykah Badu(エリカ・バドゥ)といったスターたちが D’Angelo に続き活躍していった。
D’Angelo は、Lauryn Hill(ローリン・ヒル)による1998年リリースのデビュー・アルバムで、マルチ・プラチナアルバムに輝いた『The Miseducation of Lauryn Hill』に参加し「Nothing Even Matters」にてボーカルとエレクトリックピアノを担当。
また、この時期に D’Angelo は、The Roots(ザ・ルーツ)のリーダーで、ドラマーの Ahmir “Questlove” Thompson(アミール・クエストラヴ・トンプソン)と親友になり、その後キャリアの大部分で共に活動するようになる。Questlove は『Voodoo』『Black Messiah』の制作にも深く関わっている。
なお、『Voodoo』は主にニューヨークの Electric Lady Studios で数ヶ月に渡るレコーディングとミキシングを経て制作されており、 D’Angelo、Questlove のほか、ホーン奏者の Roy Hargrove(ロイ・ハーグローブ)、キーボード奏者の James Poyser(ジェイムズ・ポイザー)、ベーシストの Pino Palladino(ピノ・パラディーノ)、プロデューサーの J Dilla(J・ディラ)と、後の Soulquarians(ソウルクエリアンズ)メンバーが参加していることでも知られており、他にも Erykah Badu や Common のアルバムも手掛けている。彼らは、スタジオでウォームアップのために、Sly & the Family Stone(スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン)の『There’s a Riot Goin』、Prince(プリンス)の『Parade』等のお気に入りのアルバムを全曲通して演奏していたという逸話も持つ。
▼Electric Lady Studios:https://www.instagram.com/p/DPhTKV1kRvd/

しかし一方で、『Voodoo』からのリードシングル「Untitled (How Does It Feel)」は、ミュージック・ビデオでのギリギリ下半身が見えないところで切られた筋骨隆々な上半身裸の D’Angelo の映像に注目が集まってしまい、 D’Angelo は “セックスシンボル” として祭り上げられてしまい、D’Angelo はそれを嫌非常に嫌がっていたとのことだ。
『Voodoo』はツアーも大成功を収め、D’Angelo のシーンでの立ち位置は揺るぎないものとなったが、その後10年間の間に2人のマネージャ、1つのレーベルと仲違いし、飲酒運転、マリファナ・コカイン所持での逮捕により表舞台から姿を消し、強迫観念に囚われた D’Angelo はバージニア州にある自宅に引きこもり、何年間もの期間を次作アルバム『Black Messiah』の制作に費やした。同アルバムの進捗状況の報告は、Questlove を通じて発表されていた。
2010年代初頭より徐々に復帰し、ヨーロッパツアーや Questlove とのライブを行うように。
2014年には前作から約15年の歳月を経て『Black Messiah』がリリース、その後大規模なツアーが展開され、最初の公演はニューヨーク・ハーレムにある Apollo Theater でスタートした。なお、16歳のとき、D’Angelo はこのApollo Theater の名物イベント「Amateur Night at the Apollo」にて初めてパフォーマンスを披露し優勝している。
しかしこのツアーの後、再び D’Angelo は隠遁生活に戻ってしまい、ほとんどパフォーマンスを披露したりすることもなくなってしまう。
Questlove が監督を務めたドキュメンタリー映画で「Sly Lives」では、模範やリーダーとして期待される才能豊かなアーティストでありながら、その役割に馴染めないプレッシャーや自らその役割を担ったことによる罪悪感についての “天才黒人の重荷” について触れられているが、この映画の中で D’Angelo も “黒人の著名人であることのプレッシャー” について以下のように 語っていた。
そして、苛立ちながら「なぜですか?」と尋ねるインタビュアーに対し、以下のように答えた。音楽をやっていようが、スポーツをやっていようが関係ない。
黒人として、損益分岐点に達するためには、常に他の誰よりも3歩、4歩、5歩先を進んでいなければならない。ずっとそうだったんだ。
彼がシーンに残した業績は計り知れないが、一方で自身の音楽に対する情熱と、黒人としての天才アーティストという立場の狭間で苦悩し続けた D’Angelo の葛藤を、他人が推し量ることは非常に難しい。なぜ理由を聞くんだ?
心よりお悔やみ申し上げます。