01.26 (Fri)
寺尾 聰(てらお あきら、1947年5月18日 - )は、日本の俳優、歌手、ベーシスト、シンガーソングライター。神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。俳優・宇野重吉の長男。サングラスをかけ、ニヒルな表情がトレードマーク。ほっぺにホクロが二つあることからボッペという渾名(あだな)もある(現在は二つとも除去している)。目黒区立第十中学校、和光学園、法政大学第二高等学校、文化学院卒業。所属事務所はホリプロダクション→石原プロモーション→寺尾音楽事務所(自らの個人事務所)。2012年現在、日本レコード大賞と日本アカデミー賞最優秀主演男優賞の両方を受賞した唯一の人物。略歴1964年に、奥島吉雄らとカレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」を結成し、ベースギターを担当。新興の芸能事務所・ホリプロダクションに所属し、1966年に『いつまでもいつまでも』でレコードデビュー。大ヒットするが、すぐにグループを脱退。1968年、三保敬太郎を中心としてザ・ホワイト・キックスというグループ・サウンズに参加。シングルを1枚出して解散。同年には、石原裕次郎製作・主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビュー。これを機に、裕次郎の門下となり、石原軍団の若手有望株として、主にテレビドラマに出演。青春ものドラマなどで二枚目半的な役柄を演じることが多かった。また、『大都会』では新聞記者、『大都会 PARTIII』(日本テレビ)、『西部警察』(テレビ朝日)など、石原プロモーション制作のアクションドラマでは刑事役で活躍した。石原軍団入りするきっかけは当初、宇野の主催する劇団民藝に一研修生として入団を希望したが、宇野本人から「たとえ研修生扱いでもマスコミは『親の七光り』として見るだろう」という理由で、宇野と懇意だった石原を紹介されたという。この間、穿孔性胃潰瘍になり、胃の大部分を切除する手術を受けている。腹部の激痛で動けなくなり、自ら救急車を要請した後にシャワーを浴びて救急隊の到着を待ったと、桃井かおりとの雑誌対談で語っている。その後、東南アジアで静養。本人は、生活費が安く、海辺で仰向けになって日に焼いていると、傷口が良くなっていく気がした、と述懐している。復帰時、それ以前のふっくらとした容貌が一変、スリムで翳のある雰囲気をまとった。
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