村上“ポンタ”秀一(むらかみ ぽんた しゅういち、1951年1月1日 - )は、日本のドラム奏者。兵庫県西宮市出身。大阪教育大学中退。O型。愛称は「ポンタさん」。ジャズ、ロック、J-POP、歌謡曲などジャンルを問わず、国内外でセッションドラマー/スタジオ・ミュージシャンとして活躍。セッションドラマーとしては日本で最も有名な人物のひとり。最盛期には年間ライブ本数200本以上、1日に複数のアーティストのレコーディングを担当することもあったほどの人気を誇る。ドラマーとして参加したアルバムは1万枚を超えるといわれる。弟子には、「ほっとけないよ」のヒットで知られる楠瀬誠志郎がいる(かばん持ち兼付き人)。経歴兵庫県西宮市生まれ。生まれてから4歳半になるまで京都の祇園に預けられ、母親の親友の芸妓「ポンタ姐さん」に育てられた。愛称のポンタは彼女に由来し、親元に戻って以来のあだ名である。西宮市立今津中学校の吹奏楽部で得津武史の指導でフレンチホルンを始める。同校2年のときに、得津の親友朝比奈隆が来校。朝比奈からリストの強さを見込まれティンパニを勧められ、ティンパニに転向する。西宮市立西宮高等学校のブラスバンド部では、1年生の時から部長兼指揮者を務めた。1969年、大阪教育大学に入学するが、当時最盛期を迎えていた学生運動に呆れて退学し、両親から勘当される。その後、得津の紹介で、大阪ロイヤルホテル付きの音楽事務所でバンドボーイを始める。この時期にクラブ歌手時代の和田アキ子、ピーター、カルーセル麻紀らと知り合っている。根っからのクラシック少年だったが、ジョン・コルトレーンの『インプレッションズ』でのエルヴィン・ジョーンズのプレイに刺激を受け、1970年初頭からドラムを始める。1972年、赤い鳥のドラマーのオーディションに合格し、プロデビューするとともに上京。世田谷区桜新町のアパートを合宿地として使用。この時にメンバーの影響でポップスやロックなどに触れるようになる。翌1973年、ギターの大村憲司とともに赤い鳥を脱退。末期にはドラムソロが20分以上もインプロヴィゼーションで続くこともあった。赤い鳥脱退後すぐに、エントランス(村上、大村、高水健司)を結成。赤い鳥時代に知り合った五輪真弓のバックバンドを始める。翌1974年、高水の「メンバーを増やして仕切り直そう」と
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