03.01 (Fri)
瞳 みのる(ひとみ みのる、本名:人見豊【読みは同じ】、1946年9月22日 - )は、日本のドラマー、中国文学・中国語研究者。グループサウンズ:『ザ・タイガース』のメンバーとして活躍。ザ・タイガース解散以後は慶應義塾高等学校教諭として中国語・漢文を担当し、漢文・中国語関連参考書を出版したことでも知られる。近年は作詞、作曲、訳詩、日中近代音楽の交流史の研究などを行なっているが、最近、旧ザ・タイガースのメンバーとの音楽活動を再開して話題となっている。略歴ザ・タイガース時代1967年から1971年にかけては、沢田研二、岸部一徳らと結成した人気グループ『ザ・タイガース』のドラマー、瞳みのるとして活躍。『ピー』の愛称で、「ジュリー」の愛称を持つボーカルの沢田に次ぐ人気を博し、雑誌の表紙やピンナップを何度も単独で飾った人気スターであった。当時、2大アイドル雑誌と呼ばれた「セブンティーン」「ティーンルック」の創刊号の表紙は、両方とも沢田と瞳が飾っている。テクニシャンではないものの、将来はジャズドラマーを目指していた独特のリズム感や躍動感をもったドラムプレイは高く評価され、彼の影響を受けたドラマーも多い。平均睡眠時間4時間前後で休みは年に一度程度のハードスケジュールに追われるザ・タイガースには新曲を練習する十分な時間がとれず、レコーディングはスタジオミュージシャンによる演奏も多かったことは有名であるが、ドラムスだけはほとんどの曲において彼自身が叩いている。レコーディングにおいてボーカルやコーラスに参加することがほとんどなかった瞳のポリシーでもあった。「イタズラっ子でからかわれ役」的なキャラクターでアイドルとしての人気を不動のものとしたが、プライベートでは非常に真面目な性格で努力家でもあった。デビュー前、「ザ・ファニーズ」として活動していた頃はリーダーとして、当時関西のアマチュアバンドの登竜門といわれた大阪のジャズ喫茶ナンバ一番のオーディションを受けさせてもらえるよう熱心に売り込みをかけたり、ナンバ一番に来ていた内田裕也に声を掛けられ上京を勧められたものの、その後内田から一向に音沙汰がなかった際には、グループを代表し、宣伝材料を携え単身東京代々木上原の内田宅を訪れ、話を進めてもらえるよう交渉するなど、ザ・タイガースのプロデビューはひとえに瞳の努力の賜物といっても過言
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