03.01 (Fri)
カルメン・マキ(旧本名:Maki Annette Lovelace、1951年5月18日 - )は、神奈川県鎌倉市出身の歌手、ロックミュージシャンである。日本国籍を取得するまでの本名はMAKI ANNETTE LOVELACEであったが、現在の本名は非公表。来歴誕生〜歌謡曲時代アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に生まれる。1968年、私立香蘭女学校高等学校を2年次で中退。イラストレーターか役者になろうかと考えていた時期に、詩人の寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』にたまたま友人に連れられていった。その舞台に感銘を受けた彼女は即入団を決意。同じ年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台(まだこの時は通称名の「伊藤牧」名義)。この時、CBSソニーの関係者の目に止まり、歌手として契約。芸名の「カルメン・マキ」はこの時期に舞台の練習中にたまたま思いついたものだという。翌1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー。17歳とは思えないその妖艶な雰囲気と歌唱力、そして哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの、累計でミリオンセラーの大ヒット。この曲で第20回NHK紅白歌合戦への出場も果たす。ちなみに、当時の彼女の曲の作曲は武満徹やクニ河内が、作詞は前述の寺山修司や谷川俊太郎が、それぞれ手がけている。これ以降も個性派歌手として活動し、6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースする。前述の「時には母のない子のように」の他にも「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争は知らない」と言ったヒット曲が出た。1970年、写真集『篠山紀信集 NUDE』(篠山紀信)でヌードを披露。ロックへの転向彼女のキャリアを語る上で欠かせないのはロックへの転向である。そもそものきっかけは、「時には母のない子のように」のレコード大賞受賞でCBSソニー社長から「ご褒美」としてレコードプレイヤーとLP盤数枚をプレゼントされた時の事である。そのLP盤の中にジャニス・ジョプリンがあった。それを聴いたマキは衝撃を受け、1970年に突然のロック転向を表明する。直後近田春夫(のちにハルヲフォンを結成)、立川直樹らと「
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