五木 ひろし(いつき ひろし、本名:松山 数夫〈まつやま かずお〉、1948年3月14日- ) は、日本の歌手。作曲家、俳優でもある。血液型はA型。2007年、紫綬褒章を受章した。京都府生まれ、福井県三方郡美浜町出身。所属事務所はアップフロントプロモーション(旧:アップフロントエージェンシー)。レコード会社は、株式会社ファイブズ・エンタテインメント経歴生い立ち父親は鉱山技師で鉱脈を追って家族で各地を転々とし京都府で生まれる。鳥羽市立加茂小学校に在籍していた頃から歌手になりたいと思っていたという。少年時代に作曲家の上原げんとの内弟子となり、松方弘樹らと共に歌を学ぶ。1960年代1964年、第15回コロムビア全国歌謡コンクールにて優勝。「歌うミスター平凡」(雑誌『平凡』主催)に選抜される。1965年6月、“松山まさる”を芸名として、コロムビアから「新宿駅から/信濃路の果て」でデビュー。シングルを計6枚発売するもヒットに至らず、1967年に日本グラモフォンへ移籍。1967年4月、“一条英一”に改名して、ポリドール・レーベルから「俺を泣かせる夜の雨/流れ星(B面は愛田健二)」で再デビュー。シングルを計3枚発売するもヒットに至らず、1968年、プロダクションの倒産とともに契約を解除される。1969年、銀座で弾き語りをしているところを作曲家の遠藤実にスカウトされ、ミノルフォンと契約。12月、“三谷謙”に再び改名して、「雨のヨコハマ/東京 長崎 札幌」で再デビューを果たすもヒットに至らず。デビューしてから約5年間の間に2度も芸名を変更するなど不遇の時代を過ごす。1970年代1970年、よみうりテレビ制作のオーディション番組『全日本歌謡選手権』に、歌手生命のすべてを賭けてミノルフォン専属のプロ歌手“三谷謙”として出場。第1週挑戦時には、「これで駄目なら、ふるさとの福井に帰って農業をやる」と悲壮な覚悟のほどを語っているが、最終的には10週連続で勝ち残り、グランドチャンピオンに輝く。これにより、レコード歌手として再デビューできる権利を獲得。同番組の審査員であった作詞家の山口洋子と、作曲家の平尾昌晃に師事。プロデューサーには山口が就任。
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