03.29 (Fri)
永 六輔(えい ろくすけ、1933年(昭和8年)4月10日 - )は、日本の元放送作家、作詞家で、現在はラジオ番組パーソナリティ、タレント、随筆家である。本名、永 孝雄(えい たかお)。角刈り頭と細長い顔がトレードマーク。血液型はAB型。長女の永千絵は映画エッセイスト、次女の永麻理は元フジテレビアナウンサー(現在はフリー)、麻理の長男で孫の育乃介は俳優。藤本義一とは遠戚である。略歴1933年(昭和8年)、代々東京・元浅草の最尊寺の住職を勤めていた永家の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日外国人17代目と自称。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた。このため戦時中は「チャンコロ」「シナポコペン」と呼ばれ、いじめを受けた。東京・下谷区(現在の台東区)の国民学校に通っていた1944年(昭和19年)、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村(現在の小諸市)の国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。 この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになる。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学第二文学部史学科を1954年に中退。以後、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティーとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動、佐渡島の独立運動、「天皇陛下に公式の場で
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