05.12 (Sun)
ジェリー藤尾(ジェリーふじお、1940年6月26日 - )は、日本の歌手、俳優、タレント。本名・藤尾薫紀(ふじお しげき)[1]。
オフィスキコ所属。代表曲は『遠くへ行きたい』(作詞:永六輔、作曲:中村八大)。専修大学附属京王高等学校中退。娘は元女優の藤尾美紀、藤尾亜紀。元妻は歌手、タレントの渡辺友子。
1940年に高知県出身でNHKアナウンサーの父・藤尾薫宏とイギリス人の母・オリビア・ヒース・ゴンザレス[2]のもと、当時の中華民国上海の日本租界で生まれる。当地で第二次世界大戦の終戦を迎え1946年に家族で日本へ引き揚げるものの、上海では家族のみならず外国人居留地においても英会話のみで生活していたため、帰国後の薫紀と母は言葉の壁や外見から謂れなき差別を受ける。
特に母の心労は深刻で、知り合いのいない地での孤独を紛らわすためアルコール依存症に陥り、薫紀が中学1年生の時に、台所で吐血しウィスキー瓶を握り締めたまま28歳の若さで死亡。息絶えた母を発見したのは、学校から帰宅した薫紀だった。
その後、家庭を顧みる余裕をなくした父によって生活は崩壊。深く傷つき、新宿など夜の繁華街で荒んだ生活を送り、愚連隊「三声会」の用心棒を務めるまでになっていた。ヤクザすら道を譲るほど喧嘩に明け暮れていたが、次第に音楽への道を志すようになり1957年にバンドボーイとして出入りしていたジャズ喫茶でエルヴィス・プレスリーの『ハウンド・ドッグ』を飛び入りで歌ったところ、これが所以でマナセプロダクションからスカウトされ、芸能界入り。
1958年、高校留年が決定したのを機に中退し本格的に芸能生活を開始。「水原弘とブルーソックス」のシンガーとして日劇のウエスタンカーニバルで初舞台を踏む。特にリトル・リチャードのナンバーを得意とした。俳優としては1959年の『檻の中の野郎たち』(監督:川崎徹広、東宝)[3]、歌手としては1961年に『悲しきインディアン』でレコードデビュー。翌1962年5月にNHKの人気番組『夢であいましょう』へ出演すると共に、同番組の「今月のうた」に採用された『遠くへ行きたい』が大ヒットして一躍人気者となり、「ダニー・ボーイ」、「土佐の一本釣り」、「指笛の丘」などのヒット曲を持つ。その後は黒澤明監督作品『用心棒』への出演など、映画・テレビを中心に幅広いエンターティナーとして活躍する。
1964年に歌手・タレントの渡辺トモコ(現・渡辺友子)と結婚し、二児をもうけた(後に長女・美紀は『極道ステーキ』、次女・亜紀は『セーラー服反逆同盟』などへ出演し、一時女優として活動した)。家族で『オールスター家族対抗歌合戦』などバラエティ番組へ出演、1974年からはトヨタ・カローラのCMへ出演して「円満な芸能人一家」として広く認知された。
しかし、1985年に入り夫婦の不仲が報じられ始め、同年末に渡辺... More Biography
オフィスキコ所属。代表曲は『遠くへ行きたい』(作詞:永六輔、作曲:中村八大)。専修大学附属京王高等学校中退。娘は元女優の藤尾美紀、藤尾亜紀。元妻は歌手、タレントの渡辺友子。
1940年に高知県出身でNHKアナウンサーの父・藤尾薫宏とイギリス人の母・オリビア・ヒース・ゴンザレス[2]のもと、当時の中華民国上海の日本租界で生まれる。当地で第二次世界大戦の終戦を迎え1946年に家族で日本へ引き揚げるものの、上海では家族のみならず外国人居留地においても英会話のみで生活していたため、帰国後の薫紀と母は言葉の壁や外見から謂れなき差別を受ける。
特に母の心労は深刻で、知り合いのいない地での孤独を紛らわすためアルコール依存症に陥り、薫紀が中学1年生の時に、台所で吐血しウィスキー瓶を握り締めたまま28歳の若さで死亡。息絶えた母を発見したのは、学校から帰宅した薫紀だった。
その後、家庭を顧みる余裕をなくした父によって生活は崩壊。深く傷つき、新宿など夜の繁華街で荒んだ生活を送り、愚連隊「三声会」の用心棒を務めるまでになっていた。ヤクザすら道を譲るほど喧嘩に明け暮れていたが、次第に音楽への道を志すようになり1957年にバンドボーイとして出入りしていたジャズ喫茶でエルヴィス・プレスリーの『ハウンド・ドッグ』を飛び入りで歌ったところ、これが所以でマナセプロダクションからスカウトされ、芸能界入り。
1958年、高校留年が決定したのを機に中退し本格的に芸能生活を開始。「水原弘とブルーソックス」のシンガーとして日劇のウエスタンカーニバルで初舞台を踏む。特にリトル・リチャードのナンバーを得意とした。俳優としては1959年の『檻の中の野郎たち』(監督:川崎徹広、東宝)[3]、歌手としては1961年に『悲しきインディアン』でレコードデビュー。翌1962年5月にNHKの人気番組『夢であいましょう』へ出演すると共に、同番組の「今月のうた」に採用された『遠くへ行きたい』が大ヒットして一躍人気者となり、「ダニー・ボーイ」、「土佐の一本釣り」、「指笛の丘」などのヒット曲を持つ。その後は黒澤明監督作品『用心棒』への出演など、映画・テレビを中心に幅広いエンターティナーとして活躍する。
1964年に歌手・タレントの渡辺トモコ(現・渡辺友子)と結婚し、二児をもうけた(後に長女・美紀は『極道ステーキ』、次女・亜紀は『セーラー服反逆同盟』などへ出演し、一時女優として活動した)。家族で『オールスター家族対抗歌合戦』などバラエティ番組へ出演、1974年からはトヨタ・カローラのCMへ出演して「円満な芸能人一家」として広く認知された。
しかし、1985年に入り夫婦の不仲が報じられ始め、同年末に渡辺... More Biography