医師の長男として東京に生まれ、まもなく中国へ渡り幼少時代は青島や北京で過ごす。小・中学時代は父親の実家の岡崎に住む。愛知県立岡崎高等学校から慶應義塾高等学校に編入する。経歴的には、慶應義塾大学文学部卒業の異色の作曲家といえる。実弟の冨田稔は医学博士、冨田病院院長、慶應義塾大学客員教授。勲の息子の冨田勝は慶應義塾大学医学部および環境情報学部教授。
作曲は独学であったが、高校2年からは平尾貴四男、小船幸次郎に師事。大学では文学部で美学美術史を専攻、その傍らで弘田龍太郎に音楽理論を学ぶ。大学2年の時に、朝日新聞社主催の全日本合唱連盟のコンクール用課題曲募集に、合唱曲『風車(ふうしゃ)』を応募し一位となる。これにより作曲家の道を歩む決心を固め、在学中よりNHKの音楽番組の仕事をはじめ作曲活動に入る。1955年に大学を卒業する。
1956年のメルボルンオリンピックに参加した日本女子体操選手のための伴奏音楽の作曲や、日本コロムビアでの学校教材用のレコード、森永製菓などコマーシャル音楽の編曲を手掛け、プロの音楽家として活動を始める。NHKのテレビ番組『新日本紀行』、『きょうの料理』や大河ドラマの音楽の作曲、手塚治虫原作のTVアニメ『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』など、放送・映画・アニメ・ドキュメンタリー・イベント・舞台・学校教材・コマーシャルソングなど、膨大な数の作品を世に送り出す。
1969年、大阪万博の東芝IHIのパビリオンの音楽を録音するため大阪滞在中に、訪れた輸入レコード店で、モーグ・シンセサイザー (MOOG III-P) を全面的に用いて作成されたワルター・カーロス(現在はウェンディ・カーロスWendy Carlos)の『スイッチト・オン・バッハ』と出会い、これこそ求めているものだと直感し、当時で1,000万円もしたというシンセサイザーの購入を決意した。
1971年秋頃、ロバート・モーグ(Robert Moog)が開発した、アナログ・シンセサイザーの草分けと言えるシステムモーグ・シンセサイザーを日本で初めて個人輸入した。当時、「楽器」として輸入しようとしたところ、日本にはまだシンセサイザーというものがなく、税関から軍事機器と疑われたことがあり、数ヶ月間税関に輸入を止められたというエピソードがある。
その後、自宅にマルチトラックレコーダーも備える電子音楽スタジオを設置し、電子音による管弦楽曲の再現を試行錯誤し、数々の作品を録音した。
1974年、1年4カ月の期間を費やしたシンセサイザーによる本格的デビュー・アルバム『月の光』を制作。当時このアルバムを日本の各レコード会社に持ちかけたが、「クラシックでもないし、レコード店に置く場所がない」などという理由ですべて断られた。そのため、米RCAレコードよりリリースされ、米ビルボード・クラシカル・チャートの第1位となる...
More Biography