01.26 (Fri)
山本コウタロー(やまもとコウタロー、本名:山本厚太郎(やまもとこうたろう)、1948年9月7日 - )は、日本の歌手、タレント、白鴎大学教授。オフィスプロフィット所属。東京都千代田区出身。芸名は山本コウタロー(コータローではない)だが、作曲や大学で教鞭をとるときは本名の山本厚太郎名義で行っている。千代田区立麹町中学校、東京都立日比谷高等学校、一橋大学社会学部卒業。
略歴など:上智大学法学部に入学。その後も東京大学受験を志すも東大紛争による東大入試中止により一橋大学社会学部に入学。大学在学中からソルティー・シュガーのメンバーとしてフォークソングを手がける。日本におけるコミックソングの代表作のひとつともいえる「走れコウタロー」をリリース。その面白さから第12回日本レコード大賞新人賞を受賞するヒットソングとなった。吉田拓郎フリークでも知られ大学の卒論は「誰も知らなかったよしだたくろう」という題名だった。ソルティー・シュガー解散後高田渡、シバらとともに武蔵野タンポポ団のメンバーとして、中津川フォークジャンボリーに参加。この頃からなぎらけんいち(現:なぎら健壱)らと親交を持つ。ソルティー・シュガー解散後に結成した山本コウタローとウィークエンドでもフォークを手がけ、「岬めぐり」(1974年)がヒット。この曲も「走れコウタロー」と並んで、現在でも歌い継がれている(2008年には、京急三崎口駅の電車到着メロディに採用された)。TBSラジオの深夜放送『パック・イン・ミュージック』金曜日の第1部パーソナリティを担当、第2部は後に山本のパートナーとなり、現在も同居生活をしている吉田真由美(DJ、映画評論家)が担当していた。『パック・イン・ミュージック』終了後、単身アメリカに渡り、約2年間生活。帰国後『アメリカあげます』(ほんの木社)を書き上げた。後に、テレビ番組の司会(『午後は○○おもいッきりテレビ』の初代司会者だった)、タレントとして活躍している。ニッポン放送『バイタリス・フォーク・ビレッジ→ライオン・フォーク・ビレッジ』のパーソナリティーをも担当したことがあった。1989年、第15回参院選比例代表区に環境政党「ちきゅうクラブ」より出馬するも落選。
続きはウィキペディアで。... More Biography
略歴など:上智大学法学部に入学。その後も東京大学受験を志すも東大紛争による東大入試中止により一橋大学社会学部に入学。大学在学中からソルティー・シュガーのメンバーとしてフォークソングを手がける。日本におけるコミックソングの代表作のひとつともいえる「走れコウタロー」をリリース。その面白さから第12回日本レコード大賞新人賞を受賞するヒットソングとなった。吉田拓郎フリークでも知られ大学の卒論は「誰も知らなかったよしだたくろう」という題名だった。ソルティー・シュガー解散後高田渡、シバらとともに武蔵野タンポポ団のメンバーとして、中津川フォークジャンボリーに参加。この頃からなぎらけんいち(現:なぎら健壱)らと親交を持つ。ソルティー・シュガー解散後に結成した山本コウタローとウィークエンドでもフォークを手がけ、「岬めぐり」(1974年)がヒット。この曲も「走れコウタロー」と並んで、現在でも歌い継がれている(2008年には、京急三崎口駅の電車到着メロディに採用された)。TBSラジオの深夜放送『パック・イン・ミュージック』金曜日の第1部パーソナリティを担当、第2部は後に山本のパートナーとなり、現在も同居生活をしている吉田真由美(DJ、映画評論家)が担当していた。『パック・イン・ミュージック』終了後、単身アメリカに渡り、約2年間生活。帰国後『アメリカあげます』(ほんの木社)を書き上げた。後に、テレビ番組の司会(『午後は○○おもいッきりテレビ』の初代司会者だった)、タレントとして活躍している。ニッポン放送『バイタリス・フォーク・ビレッジ→ライオン・フォーク・ビレッジ』のパーソナリティーをも担当したことがあった。1989年、第15回参院選比例代表区に環境政党「ちきゅうクラブ」より出馬するも落選。
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