02.17 (Sat)
一般社団法人大阪交響楽団(おおさかこうきょうがくだん)は、大阪府堺市堺区に本拠地を置くプロオーケストラ。日本オーケストラ連盟正会員。設立時の楽団名は大阪シンフォニカー。その後、大阪シンフォニカー交響楽団を経て、現在の名称へと変遷している。
オーケストラプロフィール:* 1980年、現楽団代表である敷島博子の提唱により創立される。『聴くものも、演奏するものも満足できる音楽を!』は、設立から現在まで受け継がれるモットーである。敷島博子はクラシック音楽を愛する、ごく一般の主婦であったが、音楽大学を卒業した才能ある若者が演奏活動の場が少ないことを憂い、京都市立芸術大学教授岩淵龍太郎などにプロオーケストラの設立を相談した。1980年8月、オーディションを行い、50名のメンバーを選考。初代常任指揮者には小泉ひろしが就任。同年12月、会津若松市で記念すべき初演奏(第九)が行われた。* 1981年3月には、第1回定期演奏会を森ノ宮ピロティホールで開催。* 1989年まで、年2回の定期演奏会を開催。その間、1988年には楽団の運営・支援を目的とした大阪シンフォニカー協会が設立され、専務理事として敷島博子が就任。* 1989年、トーマス・ザンデルリンクを客演指揮者に迎え、第20回記念定期演奏会が開催された。ザンデルリンクの徹底した指導は、大阪シンフォニカーにそれまで欠けていた音楽家としてのプロフェッショナルな意識を目覚めさせた。* 1990年11月、大阪府知事より表彰を受ける。同年12月には、楽団代表敷島博子の活動を紹介した「細腕シンフォニー」が朝日放送により制作、放映される。* 1990年から1993年までは年間3回の定期演奏会が開催された。* 1991年3月、牧村邦彦が指揮者に就任。同年10月、大阪シンフォニカー協会理事長に三洋電機株式会社社長井植敏(当時)が就任。同年11月、第26回定期演奏会に対して、大阪文化祭本賞が授与された。* 1992年1月、トーマス・ザンデルリンクが音楽監督・常任指揮者に就任。ザンデルリンクは2000年まで同職にあり、大阪シンフォニカーの発展に大きな功績を残した。* 1994年8月、本名徹次が常任指揮者に就任。同年9月、楽団代表敷島博子が第29回大阪市民表彰文化功労賞を受賞。
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オーケストラプロフィール:* 1980年、現楽団代表である敷島博子の提唱により創立される。『聴くものも、演奏するものも満足できる音楽を!』は、設立から現在まで受け継がれるモットーである。敷島博子はクラシック音楽を愛する、ごく一般の主婦であったが、音楽大学を卒業した才能ある若者が演奏活動の場が少ないことを憂い、京都市立芸術大学教授岩淵龍太郎などにプロオーケストラの設立を相談した。1980年8月、オーディションを行い、50名のメンバーを選考。初代常任指揮者には小泉ひろしが就任。同年12月、会津若松市で記念すべき初演奏(第九)が行われた。* 1981年3月には、第1回定期演奏会を森ノ宮ピロティホールで開催。* 1989年まで、年2回の定期演奏会を開催。その間、1988年には楽団の運営・支援を目的とした大阪シンフォニカー協会が設立され、専務理事として敷島博子が就任。* 1989年、トーマス・ザンデルリンクを客演指揮者に迎え、第20回記念定期演奏会が開催された。ザンデルリンクの徹底した指導は、大阪シンフォニカーにそれまで欠けていた音楽家としてのプロフェッショナルな意識を目覚めさせた。* 1990年11月、大阪府知事より表彰を受ける。同年12月には、楽団代表敷島博子の活動を紹介した「細腕シンフォニー」が朝日放送により制作、放映される。* 1990年から1993年までは年間3回の定期演奏会が開催された。* 1991年3月、牧村邦彦が指揮者に就任。同年10月、大阪シンフォニカー協会理事長に三洋電機株式会社社長井植敏(当時)が就任。同年11月、第26回定期演奏会に対して、大阪文化祭本賞が授与された。* 1992年1月、トーマス・ザンデルリンクが音楽監督・常任指揮者に就任。ザンデルリンクは2000年まで同職にあり、大阪シンフォニカーの発展に大きな功績を残した。* 1994年8月、本名徹次が常任指揮者に就任。同年9月、楽団代表敷島博子が第29回大阪市民表彰文化功労賞を受賞。
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